2022年5月15日(日) 第三主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
ルカによる福音書 3章1~14節
今年度、東京第一教会は主の再臨のための備えをします。それは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことです。ルカの御言葉によれば、主の来臨の日には、苦しんでいる者(苦悩の谷にある者)は顧みられ、高ぶる者(山や丘にあって人を見下す者)は低くされ、曲がった道(不正)は正され、でこぼこ道(不安)は平安になり、私たちはこの神の救いの業をまざまざと仰ぎ見ることになるというのです。
この御言葉のゆえに、主の再臨の出来事は、今苦しんでいる者にとっては希望(涙をぬぐわれる喜びの出来事)であり、高ぶる者にとっては、絶望(自らが裁かれるところの恐ろしい出来事)でしかないのです。しかし、このことは、今、外面的に「苦しんでいるのか」、「高ぶっているのか」を指している言葉ではないということに注意を払わなければならないのです。バプテスマのヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」生き方、これこそが主の道であり、私たちの将来に希望を生む生き方であると述べていますが、それは自己犠牲を伴う生き方なのであり、そこには常に苦悩と忍耐と涙が存在しているものなのです。しかるに一方、ふさわしい実を結ばない生き方には、日々、主の恵みに対する感謝も応答もなく、常に安楽を求め、神を利用して生きようとする自己中心的な生き方が存在しているのです。このようなことから、聖書の示す「苦しんでいる者」、「高ぶっている者」とは、私たちの外面的な状態を指している言葉なのではなく、内面的な状態を指している言葉であるということが分かるのです。
私たちの内面的な生き方によって、将来が希望に満ちたものになるのか、絶望に瀕したものになるのかが問われています。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」生き方こそが主の道であり、私たちの将来に希望を生む生き方なのです。私たちがこの生き方(主の道)を選び取り、整え、その道筋にひたすら歩んで行くならば、私たちの労苦(谷)はすべて報われ、来臨の主の祝福(正義・平安・救い)に与ることができるのです。