主の御業を信じて

2025年2月23日
宣教者 高見龍介牧師

ヨハネによる福音書11章38節~44節

 べタニア村に住んでいたマルタとマリア、ラザロの兄弟姉妹は、イエス様を家に招くなどして(ルカ10:38)、家族ぐるみのお付き合いをしていたようです。特にマルタとマリアは、主との交わりを通して、救いの確信を得、いつも喜んで子どものような心で主を拝していたと思われるのです。しかし、そのように主に信頼する、いたいけな姉妹にも試練が襲いかかります。それは、愛する兄弟ラザロの病いであったのです。この苦難に遭遇した時、彼女たちは「今すぐ助けに来ていただきたい!」と、一も二もなく信頼する主イエスに助けを求めたのです。しかしながら、主は彼女たちの祈りに応えることもなく、ひたすら沈黙を守られたため、ほどなくラザロは息を引き取ってしまったのです。「あ~何てことか…」。マルタとマリアは落胆します。愛する兄弟の病いを前にして、人間的な思いであくせくしたのではなく、彼女たちは信仰者として正しく振舞った。主イエスの御愛と憐れみを信じて、ひたすら主にすがったのに…。それなのに、主は助けてはくださらなかった…。主が私たちの現実に生きて働いてくださらないのなら、そこにはもはや何の望みもなく、只々絶望があるだけ…。この時、マルタとマリアの心の中は、愛する兄弟を失った悲しさと、主が助けてくださらなかった困惑と、一体何を信じたらよいのか分からない憤りで、ひっちゃかめっちゃかの混沌状態にあったのだと思われるのです。

 私たちもこれと同様の経験をします。苦難を前にして、あくせく人間的な思いで画策するよりも、主イエスにすがり、祈ります。しかし、主の沈黙を経験することがあるのです。さらには、主の介入が果たされぬまま、全ての望みが絶たれてしまうことさえもあるのです。聖書は、たとえマルタやマリアのような信仰者であっても、万事祝福されるのではなく、時として神の沈黙と絶望を突き付けられることがあることを告げているのです。この神の沈黙と絶望は、私たちにとっての究極の恐れ、苦しみでしかないのですが、しかし聖書はこれをもって筆をおくことをしないのです。なぜなら、主の御業は絶望の中にこそ現れるからなのです。

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