2021年3月14日(日) 第ニ主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 5章1〜32節
創世記4章にはカインの家系が、5章にはセトの家系が記されています。両家の家系に同一人物が混在し、内容も矛盾していることから、両家系の歴史資料としての信憑性は低いと言われています。しかし、だからと言って、この系図に隠されている神様のメッセージを汲むことなく、勝手に読み飛ばしてしまってはならないのです。
創世記の編集者は、4章カインの家系を「罪人の家系」として、5章セトの家系を「義人の家系」として描き出しています。では、罪人か義人か、両家の家系を分けた違いはどこにあったのでしょうか? 5章には、4章にない「似せて」および「かたどり」という言葉が出てきます。すなわち5章においては、人は神と同じ像(人格)をもつ者として創造されていることが強調されているのであり、それは、人がどんなに失敗した人生を歩もうとも、神の赦しと祝福の絶大なる「人格愛」を受け取る対象として造られていることを意味しているのです。その神の絶大なる「人格愛」を、自らの失敗人生の中で享受したアダムが、喜びと感謝をもって自身の神体験を「かたどり」、その子セトに語り伝えた。それが5章3節で述べられていることの真意であるのです。この神の「人格愛」を語り伝える「教育」が、代々セト家の中で受け継がれ、ファミリーヒストリーとなって行ったがゆえに、神の前に正しく人格を行使できる「義人の家系」が生まれて行ったのです。しかるに一方、カイン家では、その「教育」を怠ったがゆえに、神存在が忘れられ、心がますます自分に向いて人格を正しく行使することができず、自己中心的な「罪人の家系」を生じさせてしまったということなのです。このようなわけで、義人と罪人を分けたポイントは、実に「教育」にあったということなのです。
創世記5章の系図においては、神の恵みを証しし、語り伝えることの大切さ、「教育」の重要性が述べられていました。そこで語られる神の「人格愛」こそが、人を義なる生き方へと導き、自由意志を正しく行使させ、平和と祝福、救いをもたらし、ついには「神の国」を実現させていくことになるのです。この神様からのメッセージを受けて、私たちも礼拝や教会学校、幼稚園および日々の生活の中で、神の恵みを証ししつつ、御言葉を大切に語り伝えて行く者でありたいと思います。