2021年4月18日(日) 第三主日礼拝
宣教者 高見龍介牧師
創世記 6章1〜22節
地上に人の悪が増した時、神は洪水の審判を下しました。その洪水によって人類の全てが滅ぼされたのですが、箱舟の中に入ったノアとその家族だけは、洪水の難を逃れ救われることができたのです。では、なぜノアだけが救われたのでしょうか? 救われたノアと滅んだ人々との間にあった決定的な違いとは一体何だったのでしょうか? ノアには出来て、滅んだ人々には出来なかったこと。それは「神の声を聴く」という作業でした。
ノアとはヘブル語で「休息」という意味があります。そしてこの名前にこそ、ノアの本質および信仰的特徴が示されているのです。すなわち、ノアは心に「休息」を得ていたのです。彼の心の中には、己の計らい、思惑、考えといったものが一切活動しておらず、全く休んでいた。だから、神の言葉が彼の心に入ってきて、それに聴くことが出来たのです。
これに対し滅んだ人々(ネフィリム)は、自己拡大に生きた人々だったのです。彼らは常に自己に執着し、自己中心の計らい、思惑、考えに囚われて生きていたため、彼らの心には全く「休息」というものがありませんでした。それゆえ、神の言葉が彼らの心に入り込んでくる余地がなく、彼らはその声に聴き従って生きることが出来なかったのです。
神の言葉を「聴く」か「聴かない」か。そのようなことは、さしてたいした問題ではないかのように思えます。しかしそれは、この洪水物語のように、最後の最後に「救い」か「滅び」かの決定的な差となってあらわれてくるものなのです。ところで、あなたは日々この神の言葉を聴いていらっしゃるでしょうか? あなたの心に自己に執着した心配事や不安があって怯えていると、いくら神が語りかけてきても、それを受け付けることができず、むなしく跳ね返してしまうことになります。また自分の強さを誇り、常に自分の思惑、計らいごとに立つ者にも、神の言葉は聴かれることがないのです。しかし、ノアの信仰は「休息」でした。心に休みを得ることが神の霊感、黙示を受けるための大事な秘訣となるのです。私たちも自己への執着(罪)を神の恵み(十字架と復活)によって捨て、心に「安息」を得て、ノアのように深い休みに入る信仰に生かされていきたいものです。