キリストの名によって

2020年5月17日(日) 第三主日

準備者 山本弘夫伝道主事

使徒言行録 3章1節~13節

ハレルヤ、主の御名を賛美いたします。
「聖書教育」の本日の箇所から聖書に聴きます。
五旬祭、ぺンテコステの日に弟子たち一同の上に劇的な形で聖霊が降ります。そして世界各地から来た人々にわかる各国の言語で語り出します。人々は皆驚きとまどい不思議がります。
ペテロは、彼らにイエスキリストを証する説教を語ります。聞いていた人々は大いに心を動かされ悔い改めてバプテスマを受けます。その日に三千人ほどが仲間に加わります。そして全ての物を共有する信者の共同体が生まれます。
そうしたなかで本日の聖書箇所の出来事が起きます。
3章の1節からは、「1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上っていった。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらったのである。」です。
信心深いユダヤ人たちは、一日3回祈りの時間を持っていました。祈りは神殿の庭でささげられることで価値が高められると考えられていたのでペテロとヨハネは午後三時の祈りの時に神殿に上ってきました。
すると神殿の庭に入る「美しい門」のそばに足が不自由な男が施しを乞うために座っていました。祈るために神殿に向かう人々は、良いこと、親切なことをしようとする心の状態となり、施しをする人が多かったのだと思います。施しを受けるためには最善の場所であったと考えられます。
3節からは、「3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て施しを乞うた。4ペロトはヨハネと一緒に彼をじっと見て『わたしたちを見なさい』といった。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」です。
「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」とあります。無関心のまま通り過ぎるのでなく施しを求めるこの男の方を向き焦点をあわせ関心を高めてこの男をじっと見ます。
この男の歩んできた苦しい人生、今に至るも苦しみのなかにある人生に思いをはせたに違いありません。
師であるイエスは、多くの絶望的状態にある人々をいやし救済してきました。
その弟子もまた同じ心をもってこの男に向き合いました。
6節からは「6ペテロは言った『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。」です。

足が不自由なこの男にとって、金銀よりも立って歩けるようになることが何よりも大切なことです。諦めていたかもしれませんが癒しは夢のように嬉しいことです。
ペトロの「ナザレの人イエスキリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」との言葉によってこの男は立ち上がり歩くことができるようになります。
イエス・キリストの名によるとは、イエス・キリストが持っている力と権威によってという意味です。名とは、その人の人格と属性の全てを表しています。
師であるイエスが行っていた癒しの奇跡を弟子であるペテロも行うことができました。これはペトロの力によるものではない、イエスの名によって起こされた奇跡です。イエスの名によるならば、このような奇跡を起こすことができることが示されました。「持っているものをあげよう」という「持っているもの」とは正にイエスの名による力です。私たちにも信仰によって同じ力が与えられているのではないでしょうか。そうだとしたらペトロのようにその力を人を助けるために使いたいものです。
話はもとに戻りますが、ペンテコステの聖霊降臨の後、弟子たちは信仰に燃えておりました。
「神は復活したイエスを主とし、メシアとなさった」と語るペテロの説教で信者が三千人にもなり、原始教会の信仰共同体ができあがり、彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くことに熱心であったと書かれています。
2章の44節には、「44信者たちは、皆一つになってすべての物を共有にし。45財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて皆がそれを分け合った。46そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」と書かれています。
こうしたなかで、本日の聖書箇所の足の不自由な男の癒しの奇跡がおきました。
この奇跡を見て驚き集まってきた人々に対してペトロは宣教をいたします。
ペトロは、神がイエスを復活させたこと、イエスによる信仰がこの足の不自由な男を完全にいやしたこと、神がイエスを遣わして下さったのは、一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためであることを語ります。
ペテロがこの宣教を行いヨハネも語ります。このことにいら立った祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々は二人を捕らえて翌日まで牢にいれますが、二人の語った言葉で信じた人は男の数で五千人ほどになりました(4:4)。
足が癒されたこの男は40歳であったと書かれています(4:22)。40年間苦しい人生を歩んできたこの男は、癒されることで、自身が奇跡の証人、奇跡の証拠となります。その証人を傍らにおいて語るペトロとヨハネの宣教で五千人が信者として加わりました。この男はペトロたちのイエスをとおして示された大きな力の証拠となり神に用いられたことになります。苦しかったであろう40年間の人生もこのように用いられることで大きな意味をもつものとなったのではないでしょうか。足が不自由であったのは神の栄光がこの人のうえに表われるためであったと言えます。
私たちも自分がどのように用いられるかわかりません。また、イエスの名によって祈る祈りや言葉がどのように大きな力を発揮するかもわかりません。
イエスとともにある日々の生活、祈り、語る言葉を大切にしたいと思います。
祈ります・・・

コメントは利用できません。