イエスの大冒険

2024年12月8日
宣教者 高見龍介牧師

エフェソの信徒への手紙2章 11節~17節

 私たちが神について語る時、「神は天地の造り主にして、全知全能なる方」と告白することができます。まさしく神は、全知全能にして偏在なる方なのですが、しかし聖書をよく読んでみますと、この神の全能・全知・偏在が否定されている箇所に出くわすのです。

 神の全能の否定は、創世記3章の人間の堕罪において報告されています。神が「光あれ」と意志されると、そく光が射したように、神は意志されるところをことごとく成就される方なのです。しかし、人間の背きによって「かくあれ」と欲した神の意志が、「かくあらず」になってしまった事実、神の全能の否定を創世記3章において見ることができるのです。

 神の全知の否定は、創世記6章で報告されています。「主は…、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。ここでは、予想もできなかったほど、人間が悪なる存在になったので、その創造を悔いた神が、人間たちを地の面から拭い去ろうとしています。すなわち、人間の悪を神が予知できなかったという、神の全知の否定が報告されているのです。

 神の遍在の否定も、創世記3章の堕罪の箇所において見ることができます。ここでは、神に背いた人間が、神の顔を避けて身を隠すことができたことが報告されています。またエデンの園からの追放も、神の内から神のいない世界へと人間が破れ出たことが報告されているのです。

 このようなわけで、神の全能・全知・偏在は、人間の堕罪によってことごとく否定されるに至ったのであり、神のもとから破れ出た人間は、ひたすら滅びの道をひた走っていたのです。しかし、神はそれを良しとはされず、イエス・キリストを地上に送り、命がけで彼を冒険させることにより、人間たちによってもたらされた全ての破れ、否定を克服させ、人間たちを無条件でご自身の愛の内へと引き戻させたのです。

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