ためらい

2022年11月6日(日) 第一主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 19章15~29節

主の裁きが下るゆえ、ソドムの町から逃げるようにと、主の御使いに急き立てられた時、ロトは「ためらい」を覚えました。この時まで、ロトは神の言葉よりも豊かで快適なソドムの生活の方を愛していたのであり、加えて、「もし、この豊かさに満ち溢れた町を捨ててしまったら、この先の生活は一体どうなるのだろうか?」との将来に対する「不安」が頭をよぎったため、彼は神の恐ろしい審判を前にしても、ソドムの町を捨てることに「ためらい」を覚えたのです。
しかし、どうなのでしょうか? 豊かな低地を捨て、不毛地帯の山に逃げ込んだのなら、ロトの生活はメチャメチャになってしまうものなのでしょうか? 叔父のアブラハムを見てください。彼は創世記13章でロトと土地の分配をめぐって左右に別れた時、敢えて不毛な、いかにも苦労しそうな山岳地帯を選び取っていました。しかし、それでアブラハムは不幸な生活を送ったでしょうか? いいえ!むしろ貧しい生活をしていたからこそ、外敵(東方メソポタミア軍)に襲われることもなく、また山岳地帯という困難な生活環境の中にあったからこそ、アモリ人マムレとの助け合い・支え合いの中で生活することができたのです(創世記14章)。そして何よりも、不毛の現実の中で生きて働いてくださる主の恵みに支えられたがゆえに、アブラハムは全く平安な生活を送ることができたのです。つまり、たとえ人の目に不毛の地でも、苦難多き生活の中にあっても、主が共にいますところがパラダイスなのであり、この真理に目覚め、この信仰に生きたからこそ、アブラハムは祝福され、人間的に一回りも二回りも大きく成長することができたのです。これに対し、安穏とした快適な生活の中では、人間の目は決して真理に開かれていくことはないのです。ロトにとっては物があるところ、物資が豊かなところがパラダイスだったのであり、主が共にいますところがパラダイスであるという真理が全く理解できていなかったのです。このようなわけで、人は安穏とした生活の中に埋没してしまっては、真理に目が開かれていくことはなく、また人間的な成長も得られないということなのです。

コメントは利用できません。