じゃあじゃあ注がれよ!

2021年8月15日(日) 第三主日礼拝(オンライン)

宣教者 高見龍介牧師

詩篇 2篇1〜12節

キリストは、マタイ11章29節で「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃられています。そう、私たちがキリストの愛に学び、キリストの愛に従って生きていく時、私たちには本当の幸いと安らぎが与えられる。神様の愛と庇護の中で、百倍もの祝福を受けることができるのです。しかし、私たち人間というのは、太古の昔から、神様から離れ、罪に生きようとする本質を変えようとはしないのです。詩編2編1~3節にも、神様との愛の「軛」を離れ、神様のもとから逃れるために「枷」を引きちぎり、「絆」を投げ捨てる人間の姿が報告されています。人間は、神様の愛に服従して生きることを束縛と考え、自分のために自由気ままに生きようとする実に愚かな生き物でしかないということなのです。しかし、人間がそのように生き始める時、全ての者の自由と自由がわがままとなってぶつかり合い、社会の秩序が混乱し、結果、強い者の自由が弱い者の自由を侵害し、そこに悲しみと憎しみだけが生み出されていくことになるのです。
現代社会も、いまこれと全く変わらない状況にあります。いま世界の支配者たちは、神様の愛の支配に全く従おうとはせず、神様から離れ、神様による御国の建設を阻み続けているのです。特に、近年において顕著に見られる独裁政治国家における民衆への抑圧支配や、我が国の平和憲法改憲の動きなどは、明らかに「愛」や「法の支配」を無視するところの「力の支配」であり、それらの神なき支配が、いまや世界中を席捲しているのです。しかし、このような履き違えた自由からは決して平和は生まれてこないのです。私たちは神様から、「霊」をじゃあじゃあ注がれた者として、常にこの世の動きを注視し、横暴な力の支配者に対しては警鐘を鳴らしつつ、また苦しんでいる人々に対しては、愛の手を差し伸べて、神様の愛を証ししてゆくべきであるのです。私たちは主から御国の建設という使命を託された者として、常に主の「軛」を負い、愛と平和と正義に生き続ける者でありたいと願います。

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