2020年12月20日(日) 第三主日・クリスマス礼拝
宣教者 高見龍介牧師
マタイによる福音書 2章1〜12節
真の王様であるイエス・キリストの誕生は、この世の常識では考えられない、実に「ありえそうもない、ありがたい出来事」として起こったのです。彼はユダヤの首都エルサレムではなく、当時、蔑まされていた日陰の町ベツレヘムで生まれました。しかも華々しい宮殿ではなく、人間扱いされていない家畜小屋の飼い葉桶の中、臭気漂う、顔をそむけたくなるような現実の只中にお生まれなさったのです。さらに、その誕生を迎え入れたのが、世の実力者や知識人、エリート階級の人たちだったのではなく、罪人の血筋を持つヨセフ、数に足らぬ仕え女のマリア、無価値で神に背く地域から来た外国人の学者たち、さらには律法を守れず人々から蔑まされていた下層民の羊飼いたちであったのです。実に、これらの「ありがたい出来事」は、それまで虐げられ、見捨てられていた人々、その時代までずっと脇役だった人々が、神の恵みによって主役へと躍り出る時代になったことを告げ知らせているのであり、神の子キリストによって打ち立てられる、全く新しい時代の秩序が到来したことを宣言しているものなのです。
この世の常識に反してご降誕くださったキリストの姿に、見捨てられていた弱き者に寄り添われ、共にいてくださる神の優しさ、暖かさ、愛と憐れみを感じ取ることができます。そればかりか、真の王様であるイエス・キリストは、その生涯の最後にも、この世の常識では考えられない、実に「ありえそうもない、ありがたい出来事」を起こしてくださったのです。それが、私たち弱き民を罪から救うため、王みずからが命を献げ、犠牲になるという「十字架の死」の出来事であったのです。
以上のことから、イエス・キリストの降誕から死に至るまでの「ありがたい出来事」の中には、神の私たち人類に対する並々ならぬ愛が注ぎ込まれていることが分かるのです。私たちがこの神の愛を喜び、「ありがたい出来事」として感謝して受け取っていくならば、その人は自分が神の最善の導きの中にあり、生きることに対する大いなる肯定と赦しの中にあることを知って、尽きることのない平安と希望に歩むことができるのです。