2022年12月11日(日) 第二主日礼拝・第三アドベント
宣教者:高見龍介牧師
イザヤ書 7章1~17節
「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7:14)。この救い主の降誕預言は、イエス・キリストにおいて成就したとマタイは語ります(マタイ1:23)。しかし、マタイはこのイザヤ書の預言を一か所だけ、つまり「おとめ」の意味を変えて引用しているのです。イザヤ書の「おとめ」はヘブル語で「アルマー」と記されています。それは「結婚適齢期の若い女性」という意味で、必ずしも「処女」を意味する言葉ではないのです。しかし、マタイでは「おとめ」をギリシャ語で「パルテノス」と記し、マリアが「処女」であったことを強調し、そのことを読者に訴えかけているのです。
その結果、キリストの「処女降誕論議」が、長年にわたり歴史的に繰り返されてきました。ある人は、「そんなことありえない!」と言い、またある人は、「聖書に記されているから本当だ!」と言い張り、またある人は、「これは聖なる人格に対する詩的表現なのだ!」と言って理性的な解釈を示したりもしたのです。確かに私たちにとって、この「処女降誕」の出来事は理解し難いことです。しかし、そのことだけに囚われ、その虚しい論議に振り回されてしまっては、全く意味のないことなのです。それよりもむしろ、マタイはここで一体何を私たちに伝えたかったのか、その物語の使信に触れることが重要なのであり、そのためにも「御言葉の行間を読む」という作業が私たちには必要になってくるのです。
では、マタイは「処女」という言葉をわざわざ使って、一体何を伝えようとしたのでしょうか? 本日はそのことを学んでみたいと思うのです。そして、そこからイエス・キリストがお生まれになった意味を知り、真のクリスマスの喜びを共に分かち合いたいと思うのです。