酒は涙か溜息か

2021年8月29日(日) 第五主日礼拝(オンライン)

宣教者 高見龍介牧師

創世記 9章18〜28節

ノアは新天新地でぶどうを栽培し、世界で初めてぶどう酒を醸造する者となりました。彼は日々、芳醇なぶどう酒を味わいながら、感涙にむせびつつ、神様から賜ったこの和解と恵みのしるしに感謝を献げていたのだと思われるのです。しかしながら彼は、芳醇なぶどう酒をつい飲みすぎて酔っぱらってしまい、挙句の果てに素っ裸になり、隠し所をあらわにするという大失態を演じてしまったのでした。彼はこの時、神様からいただいた恵みを、こともあろうに罪と恥に変えてしまったのです。聖書の中でも義人中の義人と思われていたノアでしたけれども、それでもやはり完璧ではなかった。「心に安息を得、神様の御言葉に聴く信仰」をもって神様を喜ばせたあのノアでさえ、神様からの恵みを履き違えて罪を犯してしまったのです…。「あ~あ!ノアさんは酒で失敗しちゃったのか…」との溜息が聞こえてきそうな展開ですが、このノアの失敗を受けて、「だから人間はダメなのだ!」ということを聖書は語ろうとしているのではありません。では、このノアの醜態ぶりを通して、聖書は一体何を伝えようとしているのでしょうか? それは、あの義人とおぼしきノアでさえも、高尚に生きられない現実がある…。聖書は人間の罪、恥、弱さを包み隠すことなく赤裸々に描き出すことで、この世には「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)ということを告知しようとするのです。しかしこのことは、かえって私たちへの「慰め」となるのではないでしょうか(ノアとは「慰め」という意味です)。何をやっても失敗し、弱さを露呈してしまう私たち。それどころか、神様からいただいた恵みすらも、自分の都合や欲望のために利用して罪と恥に変えてしまう私たち。決して義人として生きられない私たちであるにもかかわらず、それでも神様は、「失敗してもいいのだよ!義人は一人もいないのだから!」と聖書の全巻を通して私たちに語りかけてくださっているのであり、私たちの弱さを受けとめ、そしてなおも、私たちのために和解と恵みの「ぶどう酒」を注ぎ続けてくださっているのです。この事実のゆえに、私たちは、たとえどんな大失敗を犯したとしても、神様からの赦しと慰めと励ましを永遠に受け続けることができるのであり、だからこそ、私たちは人生を恐れることなく安心して歩んでいくことができるのです。

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