覚悟の時

2020年11月1日(日) 第一主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 1章12〜13節

マルコによる福音書を読み始めています。イエス・キリストを少しでも知るためです。イエスを知ることは神を知ることであり、信仰はそこから生まれますし、活性化されます。主イエスが公の伝道活動に入られるときの様子が1章に語られていて、先週はイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた場面までのところでした。そもそも罪のゆるしを願って受けるバプテスマはイエスには必要がないことでしたが、へりくだって人からバプテスマを受けたことを神は祝福して、イエスに神の霊がくだり、神の声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神からのこの言葉を受けてすぐ、イエスは荒れ野に向かいます。神がイエスを荒れ野に行かせたという表現になっていて、それは意味があることに違いありません。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(13節)とあります。サタンとか悪魔などというと超自然的な空想世界のような感じがするかもしれませんが、神に敵対する勢力や存在全体をさす言葉です。サタンは神への信頼から人を離れさせる方向へと誘惑するものであり、私たちも多少なりともサタンの働きに思い当たることがあるのではないでしょうか。
神がイエスを荒れ野に向かわせたのは、イエスが公の活動に出る前の試練の類いだったのでしょうか。それは後にイエスがすべての人の罪を背負って死なれることを予言するようなものだったということに気付きます。そして、神がサタン・悪魔・悪霊の類いの存在に対してイエスを世に送る宣言のようなものだったのではないでしょうか。バプテスマを受けたときからイエスは油注がれた救い主として、犠牲の死を迎えることを、神はこのときに覚悟なさっていた、と思えます。

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