自分を汚すのは自分のみ

2021年5月23日(日) 第四主日・ペンテコステ礼拝(オンライン)

宣教者 山本弘夫伝道主事

マタイによる福音書 15章10〜20節

パリサイ人等が自分たちが定めた宗教的規則からイエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことをとがめます。イエスは律法の言葉を引用して彼らこそもっと大切な律法の定めを無にしていると反論します。
そして、「11それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた。『口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである。』」と語ります。
この言葉は、律法の書(モーゼ五書)のレビ記や申命記に記載されている食物規定を否定する言葉ですから律法とその解釈規定を守ることに命をかけているファリサイ派の人たちには大変なことです。
弟子たちがイエスにファリサイ派の人々が怒っていることを伝えます。それに対しイエスは、「13わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」と語ります。
ペトロから説明を求められたイエスは、「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。18しかし、口から出てくるものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。20これが人を汚す。」と語ります。
人を汚すのは、自らが語る言葉であり、自らの行いです。外から入る食物も、人が自分に加える侮辱や諸々のハラスメント、悪口なども自分を汚すことはできません。
言葉も行いも自分の心の中から出てきます。それゆえに、自分の心の状態がいつも神とともにあるか注意深く見つめることが必要であります。

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