目から鱗が落ちちゃった!

2022年3月5日(日) 第一主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 21章9~21節

創世記21章には、16章に続いて女奴隷ハガルの物語が記されています。ところで、ハガルという名には「逃亡する」という意味があります。実際にハガルは、仕えていたアブラハム家から二度も逃亡するわけで、まさしく名は体を表すということなのでしょう。「逃げる」という言葉を、英語で「Escape」(エスケープ)と言いますが、この言葉はラテン語の「エクス」(外に)+「カッパ」(外套)の合成語から来ていると言われています。つまり英語の「逃げる」という言葉には、「今まで身にまとっていたものを脱ぎ捨てて裸になり、からだ一つになって外に逃げていく」という意味があるのです。マルコ14章52節には、亜麻布をまとってこっそりとイエスの後を追ったある若者が、イエスが捕らえられた時、「その亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げ去った」という描写がありますが、まさしくこのシーンこそが「逃亡」の意味を的確に言い表している箇所であると言えるのです。
ハガルの場合、二度目の逃亡の時に、それまで彼女が持っていたアブラハム一家における地位・生活の権利が、サラやアブラハムの都合(罪)によって全て剝奪されてしまい、全くの裸同然の姿で荒涼とした砂漠の地へと逃げ堕ちて行かなければならなかったのです。そして命をつなぐ水が尽きた時、彼女はいかんともしがたい恐ろしい現実の状況に、慟哭する以外、なす術を失ってしまったのです。
同様に私たちも、今まで持っていた健康・美貌・地位・財産・家族・愛などの人生の宝が一瞬にして剝ぎ取られ、荒涼たる社会の中で慟哭の声を上げざるを得ないような人生の悲哀を体験することがあるのです。しかし、そのようなことがあっても、主は「恐れることはない!」と私たちに語りかけてくださるのです。なぜならば、主は憐れみ深く、聖書を貫く「神の義」は、争いに敗れ、弱くされた貧しい者にこそ向けられるからなのです。この「エル・ロイ」(私を顧みられる神)の存在に気づく時、私たちもハガルのように目から鱗が落ち、逃げる者から、荒野の現実(苦難)に立ち向かっていく、勇気ある者へと作り変えられていくのです。

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