毒麦のたとえ

2020年10月25日(日) 第四主日礼拝

宣教者 山本弘夫伝道主事

マタイによ〜る福音書 13章24〜43節

前回は、種蒔きのたとえでしたが、今回は、主人が麦を蒔いたあとで悪魔が、人々が寝ている間にその畑に毒麦を蒔くというたとえ話です。
やがて毒麦が成長してきます。僕は主人に毒麦を抜き集めておきましょうと提案すると主人は良い麦までいっしょに抜いてしまう恐れがあるから刈り入れまでそのままにしておくように言います。
続いて、からし種のたとえが語られます。小さなからし種が蒔かれるとそらの鳥が巣をつくるほど大きく成長します。天の国も今は小さいけれどやがて大きく成長することが語られます。
また、パン種を入れることで硬いパンが柔らかく膨らむたとえで神の国の変革力を語ります。愛の足りない人が愛のある人へと変えられます。高慢な人が謙遜な人となります。正義と公平が行なわれます。
次にたとえで語る理由が詩編の言葉を引用して説明されます。
最後にイエス自身によって毒麦のたとえの意味が説明されます。
「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。」と書かれています。はじめから良い麦と毒麦は別ものと読めますが聖書は聖書全体の文脈から読むことが必要です。たとえはどの部分がポイントかを考える必要があります。
刈り入れまでは毒麦を抜くなという点がこのたとえ話の肝と思います。
また、はじめは神に良い麦として蒔かれた者が悪魔の毒素で毒麦に変えられると解釈できます。反対に毒麦にされた者も神の力で良い麦に戻されるという希望もあります。自分が良い麦であり続けることができるように祈ります。

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