救いのときのしるし

2021年8月22日(日) 第四主日礼拝(オンライン)

宣教者 山本弘夫伝道主事

マタイによる福音書 16章1〜12節

男だけで四千人に食べ物を与えた後イエスは舟で対岸に渡ります。そこへファリサイ派の人々とサドカイ派の人々がやって来てイエスを試そうと「天からのしるしを見せて欲しい」と語ります。
ファリサイ派は、成文化(聖書として文書化)された律法であろうと言い伝え(口伝)の律法であろうと全ての律法を行為の外形において忠実に守ることが神に対する義務であり神から良い報いを得る道であると信じている人々です。政治への関心は薄く、清い生活を求め体のよみがえりを信じていました。
サドカイ派は、多くは富裕な貴族階級に属し、自分たちの富や特権を維持するためにローマにも協力的でした。口伝の律法は否定していました。体のよみがえりは信じていません。
この二つの派は、このように考え方が異なるのにかかわらず、イエスに対してはどちらも否定的であることで共通していました。
イエスは、彼らの「天からのしるしを見せて欲しい」との求めに対し、「空模様を見分けることはできるのに、時代のしるしは見ることができないのか」と答えます。
ここで時代のしるしとは何でしょうか。それは時至って今救い主イエスがここに遣わされていることが見抜けないのか、洞察できないのかということだと思います。彼らはそれぞれ宗教に熱心でありながら実際はその心が鈍っていて真実を見抜くことができないのです。
追いついて来た弟子たちはパンを持ってくるのを忘れていました。イエスは弟子たちに、「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい」と語ります。これはパン種について語ったのではなくファリサイ派とサドカイ派の教えについて語ったものでした。
ファリサイ派は、大変熱心に律法を守ろうとしますが、それは表面的形式的に守ろうとするのであって、神の真の御こころを求めて従おうとしているのではありません。サドカイ派もその宗教的姿勢は、ご都合主義で世俗化していました。謙虚に真摯に神の真の御こころを求めることが大切です。

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