失楽園は神の懲らしめか?

2021年1月10日(日) 第ニ主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 3章16〜24節

創世記3章によれば、神は罪に堕ちたアダムに「労働の苦しみ」を、エバには「出産の苦しみ」を与えてエデンの園から追放しています。私たちはこの「失楽園」の出来事を、人に対する神の審判、神からの呪いの出来事として受け取りがちです。しかし、この失楽園物語は、本当に神の人類に対する審判と呪いだけを描き出している物語なのでしょうか。
堕罪する以前、アダムはエデンの園で他律的な生き方をしていました。それは自分の意志で行動するのではなく、神によって全ての物が与えられ、全てのことを受動する生き方であったのです。それはまるでロボットのように日々同じ動作を繰り返すだけの、何の生産性も創造性もない生活だったのであり、そこに人間にとっての真の生きがいは存在していなかったのです。
人間は他律的ではなく、自律的に生きることによって、初めて神との真の応答関係に生きることができるようになるのです。さらには、神による他律的な生き方から追放されて、自律的な生に生き始める時、人間は初めて自らの手で物を生産し、命を創造していくことが可能となるのであり、そこに人間にとっての真の生きがいも生まれてくるものなのです。
このようなわけで、アダムが楽園から追放されたという出来事は、人間にとって決して不幸な出来事だったのではなく、人間が自律的に生きて神との真の応答関係を築き、さらには神の創造の業に参与して本当の生きがいを発見するためのものであったのです。それゆえ失楽園は、神が人間に与えられたところの恵みの出来事であったということが言えるのです。

コメントは利用できません。