パニックの群衆とイエスの判断

2021年5月30日(日) 第五主日礼拝(オンライン)

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 3章7〜12節

コロナ感染危機のため緊急事態宣言が延長されることになり、様々な計画がまた変更になっていきますが、粛々と祈りつつ、今できる活動に勤しんでいきたいと思います。今日はマルコによる福音書3章7〜12節から、おびただしい群衆がイエスに触れていやしていただくことを求めてパレスチナの四方から集って来たことが語られています。ファリサイ派やヘロデ派の人々がイエスを殺害することを企て始めた一方で、イエスの評判を聞いた大勢の人々が、イエスを求めて集って来たのでした。イエスは大勢の人々をいやすこともおできになったでありましょうけれども、イエスには人々が望むこととは別のお考えがあったようです。群衆がイエスに触れようとしてそばに押し寄せたとありますが、決して整然と静かに秩序正しく、というわけではなかったでしょう。群衆となったそれぞれの人は、病に苦しみ、そこから解放されたいと願っているのですから、我れ先に、という思いでパニックになって殺到しかかっていたと推測できます。その時、イエスは弟子たちに小舟を用意するように頼みます。群衆に押しつぶされないためである、と書かれていますが、それだけではなかったでしょう。ここにはイエスが船に乗って語られ、教えた、という言葉は載っていませんが、イエスが小舟に乗られたことで、彼らのパニック状態は落ち着き、静かになってイエスの言葉を待ったと想像できます。今日の箇所では、イエスが対話されるのは汚れた霊です。「あなたは神の子だ」と叫んだ汚れた霊にイエスは沈黙するよう戒めました。この意味を考えてみたいと思います。一時的熱狂的な人気に甘んじることなくご自分の使命に進まれる主イエスです。イエスを求めた群衆は、思い通りにならないイエスに対して、やがてイエスを十字架につけよ、と叫び出すのです。その群衆に自分が重なります。あり得ないほどの赦しを私たちは神からいただいています。

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