バベルの塔崩壊事件の真相

2021年10月17日(日) 第三主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 11章1〜9節

創世記11章に出てくるバベルの塔のお話は、科学技術の発展により傲り高ぶってしまった人間に対し、神様が裁きをくだしたお話としてよく知られています。しかしこの物語は、単に神様が傲慢な人間を懲らしめただけのお話に過ぎないのでしょうか? 本日は、このバベルの塔が崩壊した事件(厳密には建設が中断した。未完成に終わった事件)の真相について迫ってみたいと思うのです。
神様が裁きをくだす前、世界中の人々は同じ言葉を使って話していたと報告されています(1節)。すなわち、この時まで、このバベルの町の人々も同じ言葉で話すことで、互いに意思疎通ができ、一致協力して生きていたのです。ところが神様は、この人々の一致をご覧になって(6節)、これをよしとされず、彼らの一致を破壊し、彼らの中に混乱と離散をもたらされたというのです(8節)。おや? 神様という方は、破壊と混乱をもたらす方ではなく、一致と秩序をもたらす方ではなかったでしょうか? それなのに、この一件で神様は、その真逆の行いと裁きを行っている。これは一体どういうことなのでしょうか?
実は、3節までと4節以降とでは、人々が一つになっていた要因、その一致内容が全く異なるものであったのです。当初バベルの町の人々は、人に聞かれる言葉である「愛の言葉」を語っていたのです。それゆえ互いに意思疎通ができ、共に一致協力して当時の困難な課題(川の氾濫)にも立ち向かっていくことができ、ついにはそれを克服する見事な科学技術を生み出すことができたのです。すなわち、当初、彼らが築いていた一致とは、「愛」に基づく一致であったのです。しかし、困難を克服し、科学技術がもたらす快適で豊かな生活の中に埋没していくにつれ、彼らは自らの力(知力・能力)を誇るようになり、ついには自己拡大という価値観で一致するようになっていった。すなわち、「罪」に基づいた一致へと、人々の一致は姿かたちと性質を変えていくことになってしまったのです。このことゆえに、神様が8節でバベルの町の人々の一致を破壊したのは、彼らを混乱させ滅ぼすためだったのではなく、「罪」に基づく一致から彼らを解き放ち、彼らを永遠の死と崩壊から救い出すためであったことが分かるのです。まさしく、神様の人間に対する裁きとは、イエス・キリストの十字架の裁きの中にも見られるような、愛と慈しみが込められた救いと恵みの裁きであるということなのです。

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