ウソついちゃった!

2023年2月12日(日) 第二主日礼拝

宣教者 高見龍介牧師

創世記 20章1~18節

創世記アブラハムの物語を学んでいます。アブラハムは数多の罪を犯してきた人でしたが、全能の神の赦しに触れて、回心の「割礼」を受けた人物でした(17章)。「割礼」とは、自らの心の中にあるあらゆる思惑(知恵・能力)に頼るという生き方、自己中心の思い、それらの心の包皮を一切捨て去って、神の愛のみに信頼して生きていくことでありました。私は以前、この「割礼」を受けて以来、アブラハムは新しく生まれ変わり、「信仰の父」として一切罪を犯さなくなったと申し上げたことがあります。実際、「割礼」後の18章で、アブラハムはロト救済のために神と対等に渡り合って「とりなしの祈り」を献げています。この勇敢で力強いアブラハムこそ神に信頼し、新しく生まれ変わった信仰者の真実の姿であったのです。このように、「新生した者はもはや罪を犯さなくなる」と断言したいところだったのですが、残念ながら本日の20章でアブラハムは再び罪を犯してしまっていたのです。神なき民(ゲラル人)に恐れをなし、神に信頼せず、自らの思惑(知恵)で困難を乗り切ろうとしてウソをついてしまったのです…。でも、なぜ聖書はこのようなアブラハムの失敗を赤裸々に描こうとするのでしょうか? それは、「人間に完全な者はいない!」ということ伝えるためであったのです。いくら神の恵みに感動し、悔い改めて(心を入れ替えて)、希望に満ちて力強く歩み始めようとも、信仰のない不条理な世界は問答無用で私たちに襲いかかってくるのであり、アブラハムがおじ惑ったように、私たちもまたこの倫理・道徳心のない世界に恐れをなし、神の御心に従うよりも、手っ取り早く自らの思い・画策によって生きてしまう弱さがあるのです。このようなわけで、私たちもアブラハムのように失敗してしまう者なのですが、しかし、それによって、私たちは神から愚か者・卑怯者の烙印を押されるわけではないのです。人間の不完全さ、その弱さを痛いほど知ってくださっている神は、私たちの失敗を責めることなく、むしろ私たちに代わり責任をもってその失敗を贖ってくださるのであり、この神からの助けと恵みを受けながら、私たちもアブラハムのように祝福の基として成長していくことができるようになるのです。

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