イエスの復活

2020年4月12日(日) 第二主日(礼拝中止)

準備者 山本弘夫伝道主事

ヨハネによる福音書 20章 11節~18節

ハレルヤ、4月12日(日)のイースターに主の御名を賛美いたします。
本日は、ヨハネによる福音書の20章11節~18節までから聖書に聴きます。
イエスは、金曜日に十字架にかけられて息を引きとります。
イエスの弟子でありながらそのことを隠していたアリマタヤのヨセフは、ヨハネによる福音書3章に出てくるユダヤの議員であったニコデモとともに、イエスの遺体を引き取り、イエスが十字架につけられた所にある新しい墓に葬ります。(以上ヨハネ19章)
翌日の土曜日は安息日であり、過ぎ越しの祭りの日であったため、イエスの遺体を近くの墓に納めます。
過ぎ越しの祭りが行われた土曜日の安息日が明けた週の初めの日(日曜日)、マグダラのマリアは墓に行きますが、墓のなかにイエスの遺体はありませんでした。ここから本日の聖書箇所に入ります。
ヨハネによる福音書20章11節から「11マリアは、墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。』14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁(えんてい)だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのだとしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』16イエスが『マリア』と言われると彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」。
復活のイエスは、マグダラのマリアに「マリア」と声をかけます。
私たち一人一人も復活のイエスからそれぞれ個人名で「0000よ、私はここにいる」と声をかけられている気がします。振り向くとそこにイエスがおられるのです。
どのような時にも呼びかけて下さるイエスの声を聴きたいと思います。
イエスは、17節で「17イエスは言われた。わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上(のぼ)っていないのだから。」と語ります。
そして、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上(のぼ)る』と。」と語ります。
「わたしの父であり」とは、イエスは神の独り子であるからであり、「あなたがたの父である方」とは、私たちはイエスを長子として恵みによって神の子としての身分を授けられたものであることによります。
私たちは神を親しく父と呼ぶことができますがイエスが父と呼ぶ場合と少し意味合いが違います。

復活のイエスは、贖(あがな)いのわざを完成されて父なる神のみもとへ上(のぼ)りますが、そこで何をされているのでしょうか。
それはわたしたちのためのとりなしです。罪びとである私たちのためにとりなしていて下さいます。
18節は「18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」です。
ここでマリアは、主から託された主を証(あかし)する役割をしっかりと果たします。
私たちは、自分の罪により死んで葬られ、神の恵みの力によってよみがえらされて、神とともに復活の命に生きることを想起することができます。バプテスマの形です。
私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活のできごとをなぞるようにして、神のご計画を成就したイエス、復活のイエスとともに生きる恵みを授かっています。
神には絶対的主権と絶対的自由があります。神にはできないことはありません。そして神は愛であります。
イエス・キリストの父であり私たちの父であるこの神を信じ信頼して歩みたいと思います。

(祈り)
イエスキリストの父であり、私たちの父であります神様の御名をあがめて感謝いたします。
復活の主がいつも私たちとともにいて下さり、私たちを正しく導き、生きる力と希望を与えてくださいますように。世界的なコロナウイルスの感染が早く終息し、犠牲者の発生が抑えられますように。
教会の礼拝を再開することができますように。
この祈りをイエスキリストのお名前をとおしてお捧げいたします。

 

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