はらわたがちぎれる想いの憐れみ

2021年1月31日(日) 第五主日礼拝

宣教者 岡村直子牧師

マルコによる福音書 1章35〜45節

コロナ感染危機の非常事態宣言が出たことで、礼拝に集ることを断念してから4回目の主日礼拝の日を迎えます。皆さんにお会いできなくなって、あらためてほんのひと言の挨拶でも顔を見てそうできることの幸いを懐かしく思います。
マルコによる福音書を続けて読んでまいります。イエスが最初の4人の弟子たちと共にガリラヤのカファルナウムで伝道活動を開始しました。会堂で悪霊を追い出し、様々な人々の病を癒されたことで、人々から追いかけられるようになりました。特定の場所で人気が出て尊敬を受けながら癒しの業を続けることはそれなりに充実したことだろうと思われますが、イエスは一所に留まるのではなくガリラヤの様々な場所に行って宣教活動をなさいました。そんな中で、重い皮膚病を患う人と出会います。汚れた人という烙印を押されて社会生活から追い出された人です。しかしその人の「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という言葉を受け、イエスは深く憐んで、律法違反であることを知りながらその人に触れていやされたのでした。この「深く憐んで」と訳された原語は「はらわたがちぎれる想いにかられて」とも訳される言葉です。ご自分の内臓がちぎれ痛むほどの想いをイエスは感じられたのでした。私たちが救い主と信じるイエスはこのようなお方であります。はらわたがちぎれる想いどころか、ご自分の命を差し出されるほどに、私たち一人ひとりを愛し、慈しむ神であります。コロナで集れない中に置かれていますが、離れていても主イエスの御名による祈りでつながっていられますように。神が今も共におられることに感謝します。

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