この母ありて、この子あり

5月9日(日)11時~12時  第ニ主日礼拝(オンライン)

宣教者 高見龍介牧師

ルカによる福音書 11章28〜29節

詩編139編によれば、人間はお母さんの胎の中で、神様によって組み立てられたと報告されています。そこでは、私たち人間の一人一人は、出生以前より、神様によって徹頭徹尾、知り抜かれた存在であることが語られているのです。またそこでは、私たちすべての人間が、その出生以前より、偉大な御業をなさる神様のことを知った存在であることが同時に語られているのです。

エレミヤ書に「しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように…」という言葉があります。彼らには自分の卵ではなく、他の巣の卵を抱いて孵化させ、育てるという奇妙な習性があるそうなのです。しかし不思議なことに、孵化して雛が成長すると、雛は育ててくれた親が、自分の真の親でないことを知って巣を離れ、本当の親のもとに帰り、育ててくれた親の巣には二度と戻らないのだそうです。実にこのしゃこも、生まれる前から本当の親を知っているということなのです。

コヘレトの言葉にも「神は永遠を思う心を人に与えられる…」とあるとおり、万物をお造りになった創造主は、すべて生けるものに帰郷本能を与え、それを維持してくださっているのです。それゆえ、世界中にはたくさんの宗教が存在しています。もちろんそこには、人間のエゴ充足のための宗教もありますが、歴史的伝統を持つ宗教の根幹には、私たち人間の神様への求めが存在しているのです。また、たとえ無宗教という人でも、苦しい時には神頼みをするわけで、人間には絶対的な主権者にすがりたいという意識が、無意識の中にも確実に存在しているということなのです。

しかし、私たちの現実を見てください。すべての者が神様に知られ、神様によって造られ、また自分も神様のことを知っているのに、片や崇高な人生へと登りゆく者もいれば、片や堕落した人生へと堕ちていく者もいるのです。この両者、共に「母の胎」から出ているのに、どうしてこのような大きな差を生むのでしょうか。本日はそのことを学んでみたいと思うのです。

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