内なる人

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2019年5月5日   主の晩餐礼拝

ガラテヤの信徒への手紙2章11~21節

宣教者:富田愛世牧師

【情けない姿】

パウロはガラテヤ教会の信徒たちに、本当の福音はただキリストを信じる信仰によって与えられるということを必死になって伝えました。ところが「ある人々」によって、律法の行いが必要条件であるかのように惑わされてしまったのです。さらにペトロまでが「ある人々」の手前、異邦人との交わりを断ってしまったのです。

【私の内に生きるキリスト】

律法に生きていたパウロはキリストに出会うことによって、律法に死にました。代わりにパウロのなかにはキリストが生きておられるのです。ここにはどういう意味があるのでしょう。律法は人をしばりますが、キリストは自由と解放を与えます。律法は罪を教えますが、キリストは赦しと救いを与えます。律法は行いによって実を結ばせますが、キリストは喜びと感謝を与え、行動させてくださいます。

【モチベーション】

信仰を表現するためには行動することも大切です。以前のパウロは義とされるために行動しました。しかし、今は義とされた喜びと感謝がパウロをつき動かしているのです。律法の目的は、それ自体を守ることではなく、律法によって人々がキリストに導かれることなのです。

【信仰のみ】

神が私たちに与えてくださった恵みは、信仰によってのみ義とされる、ということです。これは約束ですから確信すべきことなのです。しかし、私たちは様々な誘惑によってこの確信が揺らいでしまい、何かしなければならないという衝動に囚われたり、「クリスチャンだからこうしなければならない」といった思いに囚われたりします。これこそが「キリストの死」を無意味なものにすることなのです。キリストの十字架はそんな私たち、善を行おうと思っていても罪を犯してしまう、そんな弱い私たちのためにあるのです。神が罪を赦してくださると約束してくださった以上、私たちがそこに条件を付けることはできないのです。

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